キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン
終業のチャイムが鳴る。
近江隆之介は1階へ降りるエレベーターの中で、明日の出張に備えての準備に思いを巡らせていた。通常ならば久我議員の送迎等で勤務中なのだが今日は特別だ。
(髭剃りと、アメニティはホテルの備え付けで済ますか)
エレベーターから降りてふと顔を上げると、閉庁後の片付けに追われる市民課のカウンターの前を通り過ぎた形の良い後頭部、整えられた頸が見えた。
あの彼女の背中が庁舎裏口に消える。近江隆之介が利用する自転車置き場の方向だ。彼女の歩調は意外と早く、あっという間にそれは石畳の道へと曲がってしまった。
「ちょ、ま」
慌てて庁舎裏の自転車置き場への階段を駆け下りるとキーチェーンを外し、方向転換する。他の自転車を倒した事も気付かずに、自転車を押してその後を追い掛けた。
石畳のカーブを曲がり、赤信号で黒いパンプスが止まる。近江隆之介は電柱一本分後ろで足を止め、青信号になるのを待った。彼女はスタスタスタスタと早足でバス停を幾つか素通りし、少しばかり急な坂道を下って行く。
(バスに乗らない、この近所に住んでるのか?)
途中までは興味本位でその後を付けてみた。
「マジか」
近江隆之介は自転車用横断歩道が青になるのを待ち、自転車を押して交差点を渡った。彼女の間抜けな足音は菊川町のコンビニエンスストアの前も通り過ぎ、交番と消防署の前から、桜橋を渡った。
(待て、待て、待て。同じ方向じゃねぇか)
思わぬ事態で同じ方向に足が進み、桜橋を越え、彼女は急なカーブの桜坂を登り始めた。
「ちょ、嘘だろ」
いや、この先は古い住宅街、そこを抜ければ大通りに出る。きっとその方向へ真っ直ぐ進む筈だ。
ところが彼女は細い道を左に曲がり、車一台しか通れないコンクリートの生垣が並ぶ路地を一直線に歩いて行く。この先はT字路になり突き当たりが近江隆之介のマンションが建っている。
胸の鼓動が早り、喉仏がごくりと上下する。彼女のほっそりとしたウェスト、きゅっとしまった足首が、かぽかぽと間抜けな音を残してマンションに入って行った。
(マジか!)
慌てた足が縺れエントランスに向かうと既にエレベーターは上昇していた。
2階、3階、エレベーターは近江隆之介の住む3階フロアで停止する。頬が赤らみ、こめかみが腫れ上がるほどに脈打っているのが分かった。(いや、ダチんちに遊びに来ただけかもしれねぇし。最悪、男の部屋か)
そして近江隆之介は、4月7日金曜日の歓送迎会の夜を指折り数えた。
カポカポと焦茶のローファーの踵を鳴らし、小鳥は沈んだ面持ちで金沢市役所の職員玄関のインターフォンを押した。眠そうな警備員の声。ガチャと鍵が開く。ネームタグを提示し、バインダーに氏名と入庁時間を記入。エレベーターはまだ動いていない。 7階までの階段を、一歩ずつゆっくり上る。 昨夜、近江隆之介が無言でベッドに滑り込んだ冷ややかな背中が頭から離れず、熟睡できなかった。今朝は隣の303号室の玄関ドアが閉まる音で目が覚めた。(顔、合わせづらいな) 物音を立てないよう身支度し、いつもより2時間早く出勤。ドアノブをそっと下ろし、ディンプルキーを静かに閉める。外廊下のザリザリした感触が、靴底越しに今の気持ちを映す。「なんであんなこと、言っちゃったんだろ」 木の質感とリネンのファブリックで統一された小鳥の部屋。壁際のアイアン調ベッドは異質だ。近江隆之介の暮らしが自己主張している気がする。過去の女性の存在がちらつき、どんな女性にどんな言葉をかけたのか、意味のない嫉妬が湧く。 あのベッドで誰かとセックスしたのかと尋ねた瞬間、近江隆之介の体が強張った。普通のことだとわかっていても、ショックだった。責めるような口調に返ってきた言葉。「お前、処女じゃねぇだろ」お互いさま。でも、そう口に出されると、心臓を鷲掴みにされ、頭を振られたような衝撃。 いっそ近江隆之介が初めてだったらよかったのに。今さら言っても仕方ない。「ふぅ」 廊下でゴミ回収のスタッフとすれ違い、軽く会釈。議員控室のドアノブに手をかけると、施錠されていない扉がギイと重く開く。やるせなさから逃れるにはちょうどいい。 給湯室の鏡には、やつれた目元が映る。(眼鏡に変えようかな)このまま開庁時間までボーッとするのももったいない。機械的にポットの蓋を開け、水道のハンドルを上げる。水が後悔のようになだれ込み、ポットから溢れ出す。「お前、溢れてんじゃん」キュッ。 背後から伸びた手がハンドルを下げ、グリーンウッドの香りが小鳥を包む。深い紺色のスーツから、白にグレーのストライプのシャツの袖口が覗く。「近江さん」「お前、起きたらいねぇし」「だって・・・」 振り返ろうとしても、近江隆之介の腕は力を緩めない。耳元で荒い息遣い。きっと自転車で桜坂を下り、鱗町の交差点を全速力で駆け抜けてきたんだろう。近い。何度こうやっ
朝、目を覚ますと、隣のベッドに小鳥の姿はない。シンと静まり返った部屋。301号室と同じ間取りなのに、妙に広く、物足りない。「チェっ」 ボサボサの頭を掻きながら洗面所へ。小鳥の歯ブラシに水滴が光り、ついさっきまでここにいた痕跡。青い歯ブラシに歯磨き粉をニュルリと絞り、ガシガシ磨きながらリビングに戻る。 小鳥のベッドに触れると、まだ温かい。(うおっと)口の端から涎が垂れそうになり、慌てて洗面所に駆け戻る。 もし小鳥がいたら、「濡れちゃいます! 変なことしないでください!」なんて小言を食らっただろう。その賑やかさが、今はない。 ガランとした空虚を背に、顔を洗い、ブルブルと振る。顎に手をやる。(ひでぇ顔してんな)目の下が黒ずんで見える。姉ちゃんに見られたら、「不摂生」「自己管理できてない」と嫌味を浴びせられそう。「マジ、俺アホか」 10歳年下の恋人の言葉にムキになって、不貞腐れて寝ちまった。自分の阿呆さに気分は急降下。「余裕、なさすぎだろ」 壁の時計は6:30。 コーヒーでも淹れるかと、ヤカンで湯を沸かす。シュンシュンと湯気が上がる。振り向けば、食器棚の二段目。グリーンとオレンジのマグカップが並んでる。白い丸いフォルムに、黒いくちばしと羽根。「俺がシマエナガとか、マジありえねぇし」 苦笑いで口の端が歪む。青椒肉絲の具材を買った《ついで》に、小鳥がこの黒い箸とマグカップを選んだんだろう。店頭で悩む小鳥の姿が目に浮かぶ。(それにしても、こんな朝早くどこ行ったんだよ) マグカップを持つ手が止まった。(まさか市役所?) 近江隆之介はガスコンロの火を止め、グレーのルームウェアを脱いでドラム式洗濯機に放り込んだ。
チーン。 電子レンジで温めた青椒肉絲が湯気を上げる。小鳥は近江隆之介の前に黒い箸を置く。小鳥模様の短い箸じゃ食べにくいだろうと、百貨店で買ってきたものだ。「何、この箸、どした?」「か、買ってきました。ピーマンと豚肉の《ついで》に!」「ふぅん、ついで、ねぇ」「なんですか、その顔」「サンキュ」「いえ」 プシュ。 二人でハイボールのプルタブを開け、グビグビ飲む。だが、小鳥の胸のモヤモヤは消えない。このモヤモヤをどう晴らせばいいのか。「なんか言いたそうじゃね?」「そうですか?」「うん、そんな顔してる」 ダメだ。全身からモヤモヤが滲み出しそう。ここは直球で聞くべきか。でも、直球ってどの辺が直球なのか、微妙だ。「これ、うめぇ」「あ、味付け濃くないですか?」「んー、ちょい濃いめかな」「次は薄味にします」「すんません、正直で」「その方が助かります」 小鳥は缶を両手で持ち、チビチビ飲む。舌先にヒリヒリ。土曜の夜、激しいキスで傷がついたのかも。(は、激しすぎ)「何、もう酔った? 真っ赤だぞ」「つ、疲れたのかな」「無理すんなよ」「あ、はい」 ううむ。モヤモヤが止まらない。近江隆之介が「ごっつおさん」と手を合わせ、キッチンで皿を洗う。ハーバルミントの洗剤の香り、流れる水、背中。抱擁妖怪の気持ちが少しわかった。「うおっ、な、何!?」 気づけば、小鳥は近江隆之介の背中に顔を埋め、腕を腹に回していた。「な、何」「近江さん」「お、おう。洗い終わったから離れて」「やだ」「やだ、って。このままじゃ顔見えねぇし」 腕を振り解かれそうになり、小鳥は力を込めてぎゅっと抱きしめた。近江隆之介の手はビシャビシャ。シンクの縁に当たり、ルームウェアの裾が濡れる。ジワリと冷たい。「ちょ、冷てぇし」「近江さん」「何、500円徴収するぞ」 一呼吸。「近江さん、あのベッドで他の人としましたか」「は?」「セックス、したんですか」「あ、っと」 近江隆之介の体が強張るのが腕から伝わる。モヤモヤは少し晴れたが、今度はムカムカが顔を覗かせる。彼の喉仏がごくりと動いた。「やっぱり、してますよね」 小鳥は腕を解き、ペタペタと歩いてリビングの床にペタンと座る。フローリングを見つめる瞼。表情は見えない。「こ、小鳥」 近
近江隆之介の帰宅は遅かった。 リビングテーブルには、ラップをかけた白い皿に青椒肉絲。ピーマンと豚こま肉が色鮮やかだ。『どうぞ食べてください』 メモにボールペンを走らせたまではよかったが、近江隆之介が帰って明かりをつければ目が覚めるだろうと、小鳥は起きて待つことにした。すると、暇な時間がこんなときに限ってよからぬ考えを呼び込む。(ペアルックの女が、あのベッドで寝てたのか) インダストリアルなベッドを眺め、近江隆之介が見知らぬ女とそのマットレスで絡み合う姿を想像。胸のモヤモヤが一気に膨らんだ。(だって、35歳だもん。冷酷で女を取っ替え引っ替えしてたんでしょ) 庁舎で耳にした噂と今の近江隆之介があまりにも違いすぎて、ううむ、と唸る。(じゃあ、その女にもパンツかぶって見せたりしたの!?) 自分《だけ》が知る素の近江隆之介。そんなはずはない。35歳の男だ。恋人や結婚を考えた相手がいてもおかしくない。一夜限りの関係だってあるだろう。実際、自分だって近江隆之介に《お持ち帰り》された身だ。(そうだよ!健康な体には正常な性欲がある!これが普通!) そう言い聞かせても、胸のモヤモヤは募る一方。バタン。 外で車のドアが閉まる音。小鳥は飛び上がり、黒いクロックスを突っかけて玄関ドアを開け、外廊下の手すりからエントランスを覗いた。 いつの間にか雨が降っている。傘を忘れた近江隆之介がタクシーで帰ってきた。小鳥は姿見でルームウェアのシワを伸ばし、跳ねた髪を撫でつける。ガチャガチャと鍵が回る音。玄関に飛び出したい衝動を抑え、ベッドに澄ました顔で腰掛けた。「お、起きてたのか」「あ、うん。近江さんが帰ってきたら目が覚めるかと思って」「そか、すまん」 近江隆之介の手にはコンビニの白い袋。シルエットから弁当だとわかる。「あ」「お、何。なんか作ってくれた!?」「え、いや、これは…」 小鳥が慌てて白い皿を隠そうとするも、近江隆之介に腕を広げられ、ラップの青椒肉絲が「ヤァ」と顔を覗かせる。脇には『どうぞ食べてください』のメモ。「うお、マジか」 小鳥の頬に、近江隆之介がちゅっと軽いキス。「な、なななな!」「マジ感動したわ」「そ、そうですか」「弁当、明日の昼に食うわ。冷蔵庫入れといて、シャワー浴びるし」「は、はい」 近江隆之介は着替えを持って洗
エレベーター左上の電光掲示板。 久我今日子、田辺五郎、藤野建のランプはグレーで消えている。彼らはこの議員控室には《いない》。7階一番奥、自主党の議員控室は鍵がかかり、蛍光灯も消されたまま。小鳥は物音を立てないよう、Facebookの更新と自主党金沢市議団のインスタグラム用の画像を選んでいた。(この写真もいいけど、ポスターが写り込んでるからダメ) 最近、田辺議員と藤野議員の政治活動が目に見えて増えた。毎朝の街頭演説、公民館での市政報告会を精力的にこなし、午後3時には議員控室にこもる。久我今日子が「9月定例議会の爆弾になる」と言い切る資料を、三議員で派閥を超えてまとめている。当然、近江隆之介も久我の第一秘書としてその作業に没頭している。(こうしてる時の近江さん、冷酷って言われるだけある。別人だ) トランクスを頭にかぶってふざけていた男や、同じ部屋に住むあの男と同一人物とは思えない。土曜の夜の激しいキスを思い出し、小鳥の手元が狂い、マウスを机の下に落とした。「うわ、わわわ!」「小鳥ちゃん、大丈夫?」「は、はい!」 昨夜は《何もなかった》。小鳥のセミダブルベッドで一緒に寝たが、近江隆之介のいびきと互いの体温に耐えきれず、小鳥は隣の無骨なベッドに移った。(この匂い)近江隆之介の匂いをタオルケット越しに感じながら、小鳥は頭からかぶって寝た。 そんな熱い夜を思い出し、慌てる小鳥をよそに、近江隆之介は淡々と仕事を進める。藤野議員が電卓を叩くと、近江隆之介はピンクの付箋を貼り替え、シャープペンシルで数字を書き込む。(やっぱり別人) 小鳥の様子をチラチラ見ていた久我今日子が、腕を組んだ。キーンコーンカーンコーン。 終業のチャイムが響く。近江隆之介は書類を茶封筒にまとめ、軽く封をした。「高梨さん、これ預かって下さい」「は、はい」 スチールラックに片付け、施錠してほしいと手渡された。聞き慣れない敬語と真顔の近江隆之介に戸惑い、小鳥は茶封筒を落とし、書類をフローリングにバラまいた。「あ、すみません!」 幸い、書類はクリップで留めてあり、散乱は最小限。小鳥は慌ててしゃがみ、必死に拾った。すると、近江隆之介も自然にしゃがみ、書類を集めるふりで小鳥の指先をキュッと握った。「・・・・・!」「どうしたの?」「え、何でもないです!」 あ 驚い
その夜はピザ。8種類のトッピングが賑やかなLサイズが、デリバリーで20分と予想より早く到着した。シャワーを交互に済ませ、お揃いのルームウェアに着替えた二人は、猫の額ほどのリビングのフローリングに腰を下ろした。 「やっぱ狭いな、ここ。エアコンつけてても、なんか暑苦しいよな」「酸素不足ですよ、絶対」 「いや、冬なら暖房費節約だろ」「いつまでいるつもりなんですか!」「まぁまぁ、ほら、乾杯しようぜ!」 「何に乾杯ですか?」「初めての夜に、カンパーイ!」 近江隆之介はさっさと缶ビールのプルタブを開け、音頭を取ると、マルゲリータピザをガツガツ口に放り込んだ。「初めての夜って、昨夜もここで寝たじゃないですか」「ンゴンゴ」「ゴックンしてから喋ってください」「ゴックン」「それ、言わなくていいですから!」 小鳥も缶ビールのプルタブに指をかけた。「セックスしてねーじゃん」 チリリーン。 時間が凍りついた。小鳥は気を取り直し、プルタブを開けてビールをグイグイ流し込むと、近江隆之介の真剣な顔を睨み返した。「初めての夜って、そういう意味ですか?」「それ以外に何があんだよ」「何って・・・・」「ピザ、食わねぇの?」「た、食べますよ!」 小鳥はホワイトソースが垂れるシーフードピザを手に取った。チーズがだらりと伸び、小指に絡まる。「ボーイスカウトの合宿じゃねぇだろ」「そ、それは・・・」「男女が一つ屋根の下、起こるに決まってんだろ」「そ、そう…ですけど」「だろ?」 二人は向かい合って頷き、缶ビールをグビグビ飲み干した。 洗面所で小鳥が歯を磨いていると、鏡に映る近江隆之介が背後に立つ。まるで抱擁妖怪の出現だ。「ンググ」「何だよ」 近江隆之介は小鳥の背後から手を回し、青い歯ブラシに歯磨き粉をニュルリと絞り出す。そして頭上でゴシゴシ歯を磨き始めた。鏡に映る二人は、まるでトーテムポール。小鳥が口をゆすいでうがいをすると、飛沫が近江隆之介の顔にペッペッと飛んだ。「お、顔にかかったじゃねぇか!」「近江さんが後ろに立つから悪いんです!」「きたねぇな!」「うるさい!」 小鳥は自分のベッドに腰掛け、近江隆之介は自分のベッドで胡座をかく。壁時計の短針がカチャリと音を立てた。「なぁ」「何ですか」「そっち、行って